新宿の誕生:内藤新宿から淀橋までの歩み

新宿の歴史

東京で育った人間としては、おそらく珍しい部類に入るのだろうと思いますが、私は昔から新宿という街に不思議と心を惹かれてきました。

決して繁華街が好きなわけではなく、むしろ渋谷や池袋は居心地が悪く感じる質ですが、それでも昨年、ふと決心がついて新宿に引っ越すと、すぐに自分の居場所となりました。暮らしてみて気づいたのは、新宿がただの繁華街ではないということです。

街を歩くと、江戸の宿場を思わせる言葉や古い道筋、石碑や社が、今も静かに残っています。その歴史をたどると、新宿は内藤家の屋敷のそばに生まれた宿場から始まり、鉄道の時代を迎えて大きく姿を変えたことが見えてきます。

そこで、新宿雑記の初の記事として、まずはこの街の誕生の歴史をたどり、内藤新宿から淀橋へと続く歩みを振りかえってみたいと思います。

家康から拝領した「内藤家」の広大な屋敷

現在の新宿御苑一帯は、天正18年(1590年)に徳川家康が江戸城に入った際、譜代家臣(徳川家が江戸幕府を開く前から仕えていた家臣)の内藤清成に与えた広大な屋敷地が起源とされています。東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保に及ぶ壮大な範囲で、石高三万石余の大名には破格の規模だったといわれます。

屋敷は甲州街道・青梅街道と鎌倉街道が交差する要衝に位置し、西国から江戸へ入る街道防衛の前線としても機能しました。家康が信頼できる家臣に警護を任せた背景には、この地の軍事的重要性があったと考えられています。

五街道整備と甲州街道の誕生

関ヶ原の戦い直後に江戸へ入った徳川家康は、全国統治を円滑に進めるため、江戸と諸国を結ぶ幹線道路網の整備に着手しました。慶長6年(1601年)に家康は朱印状をもって宿駅に伝馬の常備を命じ、道幅の拡張や一里塚の築造などを進めます。こうして東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道の「五街道」が基幹街道として順次整備されました。

五街道の末っ子にあたる甲州街道は、江戸と甲府、さらに信州方面を最短で結ぶ軍事・物流ルートとして構想されました。開設は慶長7年(1602年)とされ、元和4年(1618年)には官道として正式に認められます。江戸・日本橋から下諏訪宿までの全長はおよそ210km、宿場は46か所に及び、現在の国道20号にその経路が重なります。

ただし当初は、日本橋から最初の宿場・高井戸宿までが約4里(約16km)と長く、他街道の第一宿(品川・板橋・千住)が2里前後であったのに比べて旅人や馬に大きな負担がありました。この距離の負担を軽減し、一層増える往来に対応するため、街道沿いに新たな宿場を置く必要性が高まっていました。

五街道マップ

商人らの請願により生まれた「内藤新宿」

甲州街道に宿場を増設する計画は、周辺の有力商人たちによって具現化されます。元禄10年(1697年)、浅草の豪商で問屋仲間の頭取だった高松喜兵衛(または高松喜兵衛とも書かれる)ら5名は、江戸日本橋と高井戸宿の中間に新しい宿駅を開設するよう幕府に願い出ました。彼らは「日本橋―高井戸宿の中間に宿場を設ければ、公用・商用どちらの往復にも利益が大きい」と説き、宿場整備費用として5,600両という巨額の上納を自ら負担することを申し出ました。

翌元禄11年(1698年)には甲州街道の新しい宿駅「内藤新宿」が開設され、庄屋や問屋を務める10人衆が町の運営に当たりました。宿場の名前に「新宿」と付いたのは、既存の宿場に対して「新しい宿場」を意味するためであり、領主名である内藤家の姓を冠して「内藤新宿」と呼ばれるようになりました。

新宿歴史博物館の内藤新宿ジオラマ

開業当初の内藤新宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋数十軒を備える小規模な宿場でしたが、庶民向けの茶屋や飯屋が集まるにつれて、甲州街道と青梅街道の分岐(追分)として物流の拠点となり、江戸近郊の農産物や薪炭、夜土(肥料としての糞尿)などの集散地として賑わいました。旅籠に出入りする飯盛女と呼ばれる女性たちが実質的な遊女として働いていたことから、遊興地としての性格も強まりました。また、宿場の入口には町役人が常駐する「地震番屋(じしんばんや)」が置かれ、消防道具や捕物道具を備えた交番のような役割を果たしていたことも記録されています。宿場の周囲には武州多摩川沿いの桜並木や落合の蛍、面影橋の雪景色など自然を楽しむ名所が点在し、後年浮世絵師の歌川広重が「名所江戸百景」の中で宿場の風景を描いたことでも知られます。

歌川広重の浮世絵『四谷内藩新宿』の複製プリントの写真
歌川広重「名所江戸百景」

盛衰:享保の改革と宿場の廃止・復活

内藤新宿は開設から二十年足らずの享保3年(1718年)10月、幕府の命により廃止されます。表向きの理由は「甲州道中は旅人が少なく、新しい宿ゆえ不要」とされましたが、当時は八代将軍・徳川吉宗のもとで享保の改革が進められており、宿場で黙認されがちだった飯盛女を抑制する風紀取締りが強化されていました。内藤新宿は岡場所としての賑わいでも知られていたため、改革の一環として廃止に至ったと考えられます。

宿場が消滅したことで一帯は一時的に荒廃しましたが、幕府は財政立て直しのため宿場からの税収を再び期待するようになり、明和9年(1772年)4月には内藤新宿の再開(明和の立ち返りと呼ばれる)が認められます。再開に際しては「飯盛女は宿場全体で150人まで」「年貢とは別に毎年155両を上納」「助郷村は33か所」などの条件が付され、制度的枠組みのもとで宿場機能が復活します。以後、文化5年(1808年)には旅籠50軒・引手茶屋80軒を数えるまでに賑わいを取り戻し、江戸四宿の中でも品川に次ぐ繁栄をみせるようになりました。

明治維新後の衰退と遊郭化

明治維新によって交通制度が抜本的に改められると、1872(明治5)年に宿駅伝馬制が廃止されました。伝馬の供給義務と公定料金という“宿場町の特権”が消えたことで、内藤新宿は宿駅としての機能を急速に失い、旅籠は客足を大幅に減らします。

宿場の衰退に追い打ちを掛けたのが政府による土地買収です。1872年、明治政府は内藤家旧下屋敷約9万5千坪を買い上げて「内藤新宿試験場」(後の新宿御苑)を開設しました。かつての中心地の半分近くが官有地となり、街道沿いの民間地は虫食い状に取り残されます。

一方、旅籠に残っていた飯盛女(遊女)は制度改正で“公認”へ転化します。1873(明治6)年に「貸座敷渡世規則」が施行されると、飯盛女を抱える旅籠は屋号を「貸座敷」に改め、吉原・品川と並ぶ府内三大遊郭の一つとして再出発しました。

遊興需要は地価にも反映され、1882(明治15)年の東京府統計書では南豊島郡で最高価格を記録した地点が「内藤新宿二丁目」でした。遊郭経済が地域の財源となり、町は“宿場から歓楽街へ”と色を塗り替えていきます。

やがて都市拡張に伴う衛生・風紀対策が進み、1918(大正7)年には警視庁が貸座敷を現在の新宿二丁目(当時「牛屋の原」)に移転させる方針を通達します。遊郭は三年間で段階的に移され、旧・内藤新宿の街道沿いは静かな商住混在地へと転じました。

こうして内藤新宿は、宿駅→歓楽街→周縁部への遊郭移転という三段階を経て、近代都市・新宿の外郭へ吸収されていきます。宿場の衰退を起点にした“遊郭化”は、一見下り坂の歴史に見えながらも、結果的に新宿二丁目や歌舞伎町へと続く歓楽文化の土壌を育んだと言えます。

鉄道駅の開業と町の重心の移動

近代化が進む中で、交通の主役は街道から鉄道へと移ります。1885(明治18)年、甲武鉄道(後の中央本線)が赤羽〜新宿〜品川間の路線を開通させ、現在の新宿駅が開業しました。開業当初は貨物列車主体で1日3往復程度の運行に過ぎず、駅舎も小さな平屋建てであったため周辺は閑散としていました。それでも鉄道は馬車や徒歩に比べて格段に速く、多くの商人や官庁が徐々に駅周辺に集まるようになります。1889年には甲武鉄道が官営鉄道に編入され中央線となり、1915年には新宿を起点とする京王電気軌道(現・京王線)、1923年には小田原急行鉄道(現・小田急線)が相次いで乗り入れ、新宿は各方面へ伸びる鉄道ネットワークの中心として急速に発展します。

駅の開設とともに宿場時代の中心地であった追分周辺から、西側にある駅前へと町の重心が移動しました。旧宿場の家並みは衰退し、代わりに駅前には商店街や市場が形成され、行商人や買い物客で賑わうようになります。明治末から大正にかけては、駅前に映画館や劇場が建ち、蒸気機関車の汽笛が鳴る風景は「西郊の市」とも呼ばれる新たな商業エリアを象徴しました。

新宿駅(1925年/第三代駅舎)

近代都市の衛生を支えた淀橋浄水場

人口増加と産業の発展に伴い、飲料水の確保は近代東京の喫緊の課題となります。1886(明治19)年に東京でコレラが大流行したことを受け、衛生的な水道を整備する必要性が高まりました。東京府は英国の技術を参考に近代水道の計画を策定し、淀橋の台地に浄水場を建設することを決定します。1892年に着工した淀橋浄水場は、近くの多摩川から導水して砂濾過を行う本格的な水道施設として、1898年12月1日に通水を開始しました。この浄水場により、日本橋や神田など旧市街に清潔な水が供給され、東京の公衆衛生が飛躍的に向上しました。

淀橋浄水場が置かれた西新宿一帯は当時「淀橋」と呼ばれ、周辺は畑地や田んぼが点在する郊外でした。浄水場の完成後も、地下水をくみ上げる井戸が至る所に残り、渋谷村や代々木村では茶畑や桑畑が営まれていました。しかしこの大規模なインフラ整備は、やがて周辺への住宅供給や工場立地を促し、西新宿が都市化していく重要なきっかけとなります。

淀橋浄水場

関東大震災と新宿の台頭

1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災は東京の下町を壊滅させ、商業・行政機能は大きな打撃を受けました。これに対し、洪積台地に位置する新宿は比較的被害が軽微であったため、官庁や企業が移転し、臨時の小売市場や百貨店が次々と開設されました。震災後の急激な人口流入に対応するため、新宿駅はホームの増設や南口・東口の整備が進められ、周辺には映画館、カフェ、ダンスホールなど大衆文化の拠点が形成されます。1927年には東京横浜電鉄が渋谷まで開通し、郊外に住む人々が新宿経由で通勤・買物をするようになりました。

1930年頃には新宿は銀座に次ぐ東京第二の商業地と呼ばれ、1933年には呉服商「三越」が他地区の仮設店舗を基に新宿店を出店するなど、大手百貨店が進出し始めます。こうして、新宿は宿場町から近代都市へと大きく変貌し、戦後には超高層ビル群が林立する現在の姿へとつながっていきます。

おわりに:次回への橋渡し

本記事では、徳川家康から賜った内藤家の屋敷に起源を持つ新宿が、江戸時代の宿場町として誕生し、享保の改革による廃止と復活、明治の衰退と園芸実験場への転用、鉄道と水道の整備を経て近代都市へと成長していく過程を詳しく見てきました。道端の石碑や地名に残る「内藤」「淀橋」といった言葉には、こうした歴史の層が重なっています。次回は、関東大震災後の復興から戦後の闇市、高度経済成長期の超高層ビル建設、そして歌舞伎町の誕生まで、激動の昭和期に焦点を当て、新宿がいかにして日本を代表する繁華街へと発展していったのかを追います。

参考文献・引用元

旅行ガイド『Shinjuku Station history』:1885年の駅開業と中央線・京王線・小田急線の乗り入れ、1920年代の人口増加と区名の変更に関する情報を参照。

新宿観光振興協会『四谷内藤新宿物語』:甲州街道の距離、内藤新宿の開設・閉鎖の経緯、宿場再開後の繁栄について参照。

歌舞伎町文化新聞・歴史解説記事:内藤新宿創設時の商人の請願、遊郭移転、甲武鉄道開業による町の重心移動、内藤新宿試験場の設立などの詳細を参照。

新宿御苑公式サイトおよび環境省資料:内藤家屋敷の由来、園芸試験場、福羽逸人による園芸発展、新宿御苑の成立と一般公開までの歴史を参照。

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